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暖かい厨房

Penulis: 八街ヒサシ
last update Tanggal publikasi: 2026-06-18 21:18:35

まさか、こんなに苦戦するとはーー

咲希からの電話を受けた弁護士たちは、訴訟の相手が海斗だと知ると、一様に断りの言葉を口にした。

「相手が悪すぎます、畠山さんのところの法務部は……ちょっと」

海斗の会社は大きく、きちんとした法務部がある。

利益がらみでギリギリの駆け引きをすることも多い海斗は、特にこの部署に優秀で狡猾な人材を集めており、そこらの真っ当な弁護士事務所では太刀打ちできない。

咲希は八件目の電話を丁寧に切った後、天井を見上げてため息をついた。

咲希は小娘ではないのだから、「困ったことがあったら頼りなさい」というのが、社交辞令の一つであることも、それでもわずかばかりの情が含まれていることも、知っている。

——それでもこの結果か。

咲希はスマホを置いて立ち上がった。

開店の時間まで1時間、立ち上げが始まる。

最初に出勤してきたのは村上だった。

彼は咲希自らが引き抜いてきた人材であり、一番弟子といって過言ない。

厨房着に着替え、固く一つに結んだ髪の上にコック帽を被った彼は、厨房に入ってすぐに咲希を気遣った。

「先生、大丈夫ですか」

この店の従業員たちは咲希と海斗の関係がすでに破綻していることを知っている。

もちろん、咲希が夫からこの店を守ろうと抵抗していることも知っているのだ。

だが、彼らは若くて後ろ盾もない。

せいぜい咲希を気遣う程度のことしかできない。

「先生、立ち上げは俺がやりますよ、よかったら少し休んでてください」

「ありがとう、今日の前菜《オードブル》は白身魚とホタテの刺身にするわ、とてもいいヒラメが届いているから、下処理をお願いね」

「カルパッチョですか?」

「いいえ、刺身よ。ソースは醤油とワサビをベースに、私が作るわ」

「刺身ですか、フレンチなのに」

「フレンチだから刺身を出しちゃいけないなんてルールはないでしょ」

「また……オーナーに怒られますよ」

「そうね、怒られるでしょうね」

村上は軽く首をすくめて、それ以上は何も言わなかった。

彼は黙って、まな板いっぱいに横たわるヒラメを捌き始める。

彼の手元は繊細ではないが誠実だ。

ゆっくりとした包丁さばきで、皮を引いてゆく。

次に出勤してきたのはギャルソンの時下。

彼はソムリエの資格も持っており、ヒラメを見るとすぐに目を輝かせた。

「白身魚ですか、となると白ですね」

咲希は頷く。

「甘口のものを中心に準備してちょうだい」

最後に出勤してきたのは宮下だ。

彼は調理学校を出てすぐに土下座で弟子入りを請うてきた。

この中では一番若く、若さゆえのだらしなさがまだ抜け切っていない。

「あれ〜、みんな、早いですね」

「お前が遅いんだよ」

「え〜、別に遅刻したわけじゃないし、遅くないでしょう」

「いいからさっさと着替えてこいよ」

「は〜い」

だが彼は、まな板に置かれたヒラメを見て足を止めた。

彼の目に鋭さが宿る。

「白身ですか」

「ええ、ホタテと合わせて出そうかと」

「なるほど、それだと絵面が白すぎですね、色を足すなら緑……赤、黒い皿を使うのもありか」

彼のセンスは一流だ。

感性は咲希に近く、料理のルールに対する柔軟性もある。

「先生、盛り付けは俺にやらせてください!」

「だったら早く着替えて、手を洗ってらっしゃい」

「やった! あ、村上さん、まだ! まだ、そのまま切らないでください、マッハで着替えてくるので!」

バタバタと慌ただしく走ってゆく宮下を見て、村上と時下はからりと笑う。

「朝っぱらから元気だな!」

「若さですねえ」

ここはいつでも暖かい。

夫が帰ってこなくなった、あの家よりも、ずっと……

咲希は、店が終わったらもう一度だけ、弁護士に電話してみようと心に決めた。

海斗がどれほど手強かろうとも、この店だけは渡さない。

そこに、バタバタと足音を立てて、宮下が戻ってきた。

「マッハで着替えました! 手洗いも終わってます!」

普段はだらしない彼だが、厨房着だけはきちんと一番上のボタンまで止めて着る。

根は真面目なのだ。

「さあ、先生、仕込み済ませちゃいましょう!」

「さて、じゃあヒラメをどうカットするのか、決めちまおう! 厚めに切るのか薄切りにして並べるのか」

「ソースの構成も伺ってよろしいですか、それによっておすすめのワインを決めますので」

ラ・ベラ・ヴィータの1日が始まる。

X冷え切った家

畠山海斗は合理主義の男である。

彼にとって食事とは生命維持のための栄養補給、そしてビジネスを円滑に進めるためのツール、それ以上でも以下でもなかった。

だが、新しく愛人となった向坂淳美は、 新たな“食事”の価値を彼に教えてくれた。

「飲食業って、手堅いビジネスだって言われてるのよ、だって食事をしない人はいないんだから常に需要はあるわけでしょ」

料亭の個室で、卓上に並ベラれた料理の写真を撮影しながら、彼女は言った。

向坂淳美はフォロワー数3万人を超えるインフルエンサーで、その主な活動は高級料理店や話題の店舗のグルメリポートである。

「だけど、需要があるってことは、競合も多いってコト! つまりレッドオーシャンなのよ、お店を成功させるためには他店との差別化とブランディングが必要なの、つまり知名度って武器なのね」

海斗は突き出しの小鉢に箸をつけながら、「なるほど」と頷いた。

淳美の知識は底が浅い。

しかし若さ故の直感的で大胆な発想は、海斗に新鮮なインスピレーションを与えてくれる。

利益に貪欲なところも海斗と相性がいい。

今まで付き合ってきた女たちとは違う“価値”が、淳美にはある。

畠山海斗は合理主義の男なのだ。

彼にとって"ラ・ベラ・ヴィータ"は、回収効率の悪い不良債権でしかなかった。

そしてそれは、畠山紗希という女にも当てはまる。

だから彼は利を取って、向坂淳美を選んだ。

淳美はようやく撮影を終えて、料理の前に座った。

箸をとるよりも先にスマホをいじり、撮ったばかりの動画を入念にチェックする。

「ラ・ベラ・ヴィータは知名度あるお店だし、そこに私が企画として入ったら、それだけでもすごい話題になると思うのよ、でも今の経営スタイルじゃダメ、1日5組限定なんて、採算取れないでしょ」

「なるほど」

「だから、私が考えるコンセプトはこう! “あの有名店の料理を誰でも手軽に”!」

「悪くないな」

海斗は淡々と箸を進める。

淳美は、まだスマホを置かない。

どこからか、鹿おどしの跳ねる甲高い音が響いた。

食事を終えた海斗は、久しぶりに"家"に帰った。

パーティ向けの礼服が必要だったのだ。

ドアを開けると、なんの匂いもしない空間が、そこにあった。

例えば料理を作ってこびりついた油煙の匂いだとか、浴室に蓄積する水垢の匂いだとか——そうした生活臭は、この家にはない。

締め切ったままのカーテンを開けると、窓は綺麗に磨かれていた。

家具に埃が積もっているようなこともない。

どうやら咲希はたびたび掃除をしに帰ってはいるようだ。

だけど、ただ、それだけ。

家具も家電も最低限。

脱ぎ散らかされた衣服もないし、何か小物が出しっぱなしになっているようなこともない、異様に片付いた部屋。

海斗にとっても、ここは大きなクローゼットでしかない。

彼はリビングを横切って寝室に向かった。

自分の足音だけがやけに耳に響く。

クローゼットを開ければ、スーツはシーズン別、色別にきっちり分類されている。

海斗はその中から、黒いダブルのスーツと上品なシルクのベストを選び出した。

カーテンをきっちり閉め、スーツを小脇に抱えた海斗は、玄関で一度振り向いてみた。

なんの気配も、物音もない、がらんどうの“家”。

——この家は、いつからこんなに冷え切ってしまったのだろうか。

彼は黙って扉を閉め、鍵をかけた。

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