Masukまさか、こんなに苦戦するとはーー
咲希からの電話を受けた弁護士たちは、訴訟の相手が海斗だと知ると、一様に断りの言葉を口にした。
「相手が悪すぎます、畠山さんのところの法務部は……ちょっと」
海斗の会社は大きく、きちんとした法務部がある。
利益がらみでギリギリの駆け引きをすることも多い海斗は、特にこの部署に優秀で狡猾な人材を集めており、そこらの真っ当な弁護士事務所では太刀打ちできない。
咲希は八件目の電話を丁寧に切った後、天井を見上げてため息をついた。
咲希は小娘ではないのだから、「困ったことがあったら頼りなさい」というのが、社交辞令の一つであることも、それでもわずかばかりの情が含まれていることも、知っている。
——それでもこの結果か。
咲希はスマホを置いて立ち上がった。
開店の時間まで1時間、立ち上げが始まる。
最初に出勤してきたのは村上だった。
彼は咲希自らが引き抜いてきた人材であり、一番弟子といって過言ない。
厨房着に着替え、固く一つに結んだ髪の上にコック帽を被った彼は、厨房に入ってすぐに咲希を気遣った。
「先生、大丈夫ですか」
この店の従業員たちは咲希と海斗の関係がすでに破綻していることを知っている。
もちろん、咲希が夫からこの店を守ろうと抵抗していることも知っているのだ。
だが、彼らは若くて後ろ盾もない。
せいぜい咲希を気遣う程度のことしかできない。
「先生、立ち上げは俺がやりますよ、よかったら少し休んでてください」
「ありがとう、今日の前菜《オードブル》は白身魚とホタテの刺身にするわ、とてもいいヒラメが届いているから、下処理をお願いね」
「カルパッチョですか?」
「いいえ、刺身よ。ソースは醤油とワサビをベースに、私が作るわ」
「刺身ですか、フレンチなのに」
「フレンチだから刺身を出しちゃいけないなんてルールはないでしょ」
「また……オーナーに怒られますよ」
「そうね、怒られるでしょうね」
村上は軽く首をすくめて、それ以上は何も言わなかった。
彼は黙って、まな板いっぱいに横たわるヒラメを捌き始める。
彼の手元は繊細ではないが誠実だ。
ゆっくりとした包丁さばきで、皮を引いてゆく。
次に出勤してきたのはギャルソンの時下。
彼はソムリエの資格も持っており、ヒラメを見るとすぐに目を輝かせた。
「白身魚ですか、となると白ですね」
咲希は頷く。
「甘口のものを中心に準備してちょうだい」
最後に出勤してきたのは宮下だ。
彼は調理学校を出てすぐに土下座で弟子入りを請うてきた。
この中では一番若く、若さゆえのだらしなさがまだ抜け切っていない。
「あれ〜、みんな、早いですね」
「お前が遅いんだよ」
「え〜、別に遅刻したわけじゃないし、遅くないでしょう」
「いいからさっさと着替えてこいよ」
「は〜い」
だが彼は、まな板に置かれたヒラメを見て足を止めた。
彼の目に鋭さが宿る。
「白身ですか」
「ええ、ホタテと合わせて出そうかと」
「なるほど、それだと絵面が白すぎですね、色を足すなら緑……赤、黒い皿を使うのもありか」
彼のセンスは一流だ。
感性は咲希に近く、料理のルールに対する柔軟性もある。
「先生、盛り付けは俺にやらせてください!」
「だったら早く着替えて、手を洗ってらっしゃい」
「やった! あ、村上さん、まだ! まだ、そのまま切らないでください、マッハで着替えてくるので!」
バタバタと慌ただしく走ってゆく宮下を見て、村上と時下はからりと笑う。
「朝っぱらから元気だな!」
「若さですねえ」
ここはいつでも暖かい。
夫が帰ってこなくなった、あの家よりも、ずっと……
咲希は、店が終わったらもう一度だけ、弁護士に電話してみようと心に決めた。
海斗がどれほど手強かろうとも、この店だけは渡さない。
そこに、バタバタと足音を立てて、宮下が戻ってきた。
「マッハで着替えました! 手洗いも終わってます!」
普段はだらしない彼だが、厨房着だけはきちんと一番上のボタンまで止めて着る。
根は真面目なのだ。
「さあ、先生、仕込み済ませちゃいましょう!」
「さて、じゃあヒラメをどうカットするのか、決めちまおう! 厚めに切るのか薄切りにして並べるのか」
「ソースの構成も伺ってよろしいですか、それによっておすすめのワインを決めますので」
ラ・ベラ・ヴィータの1日が始まる。
X冷え切った家
畠山海斗は合理主義の男である。
彼にとって食事とは生命維持のための栄養補給、そしてビジネスを円滑に進めるためのツール、それ以上でも以下でもなかった。
だが、新しく愛人となった向坂淳美は、 新たな“食事”の価値を彼に教えてくれた。
「飲食業って、手堅いビジネスだって言われてるのよ、だって食事をしない人はいないんだから常に需要はあるわけでしょ」
料亭の個室で、卓上に並ベラれた料理の写真を撮影しながら、彼女は言った。
向坂淳美はフォロワー数3万人を超えるインフルエンサーで、その主な活動は高級料理店や話題の店舗のグルメリポートである。
「だけど、需要があるってことは、競合も多いってコト! つまりレッドオーシャンなのよ、お店を成功させるためには他店との差別化とブランディングが必要なの、つまり知名度って武器なのね」
海斗は突き出しの小鉢に箸をつけながら、「なるほど」と頷いた。
淳美の知識は底が浅い。
しかし若さ故の直感的で大胆な発想は、海斗に新鮮なインスピレーションを与えてくれる。
利益に貪欲なところも海斗と相性がいい。
今まで付き合ってきた女たちとは違う“価値”が、淳美にはある。
畠山海斗は合理主義の男なのだ。
彼にとって"ラ・ベラ・ヴィータ"は、回収効率の悪い不良債権でしかなかった。
そしてそれは、畠山紗希という女にも当てはまる。
だから彼は利を取って、向坂淳美を選んだ。
淳美はようやく撮影を終えて、料理の前に座った。
箸をとるよりも先にスマホをいじり、撮ったばかりの動画を入念にチェックする。
「ラ・ベラ・ヴィータは知名度あるお店だし、そこに私が企画として入ったら、それだけでもすごい話題になると思うのよ、でも今の経営スタイルじゃダメ、1日5組限定なんて、採算取れないでしょ」
「なるほど」
「だから、私が考えるコンセプトはこう! “あの有名店の料理を誰でも手軽に”!」
「悪くないな」
海斗は淡々と箸を進める。
淳美は、まだスマホを置かない。
どこからか、鹿おどしの跳ねる甲高い音が響いた。
食事を終えた海斗は、久しぶりに"家"に帰った。
パーティ向けの礼服が必要だったのだ。
ドアを開けると、なんの匂いもしない空間が、そこにあった。
例えば料理を作ってこびりついた油煙の匂いだとか、浴室に蓄積する水垢の匂いだとか——そうした生活臭は、この家にはない。
締め切ったままのカーテンを開けると、窓は綺麗に磨かれていた。
家具に埃が積もっているようなこともない。
どうやら咲希はたびたび掃除をしに帰ってはいるようだ。
だけど、ただ、それだけ。
家具も家電も最低限。
脱ぎ散らかされた衣服もないし、何か小物が出しっぱなしになっているようなこともない、異様に片付いた部屋。
海斗にとっても、ここは大きなクローゼットでしかない。
彼はリビングを横切って寝室に向かった。
自分の足音だけがやけに耳に響く。
クローゼットを開ければ、スーツはシーズン別、色別にきっちり分類されている。
海斗はその中から、黒いダブルのスーツと上品なシルクのベストを選び出した。
カーテンをきっちり閉め、スーツを小脇に抱えた海斗は、玄関で一度振り向いてみた。
なんの気配も、物音もない、がらんどうの“家”。
——この家は、いつからこんなに冷え切ってしまったのだろうか。
彼は黙って扉を閉め、鍵をかけた。
まさか、こんなに苦戦するとはーー咲希からの電話を受けた弁護士たちは、訴訟の相手が海斗だと知ると、一様に断りの言葉を口にした。「相手が悪すぎます、畠山さんのところの法務部は……ちょっと」海斗の会社は大きく、きちんとした法務部がある。利益がらみでギリギリの駆け引きをすることも多い海斗は、特にこの部署に優秀で狡猾な人材を集めており、そこらの真っ当な弁護士事務所では太刀打ちできない。咲希は八件目の電話を丁寧に切った後、天井を見上げてため息をついた。咲希は小娘ではないのだから、「困ったことがあったら頼りなさい」というのが、社交辞令の一つであることも、それでもわずかばかりの情が含まれていることも、知っている。——それでもこの結果か。咲希はスマホを置いて立ち上がった。開店の時間まで1時間、立ち上げが始まる。最初に出勤してきたのは村上だった。彼は咲希自らが引き抜いてきた人材であり、一番弟子といって過言ない。厨房着に着替え、固く一つに結んだ髪の上にコック帽を被った彼は、厨房に入ってすぐに咲希を気遣った。「先生、大丈夫ですか」この店の従業員たちは咲希と海斗の関係がすでに破綻していることを知っている。もちろん、咲希が夫からこの店を守ろうと抵抗していることも知っているのだ。だが、彼らは若くて後ろ盾もない。せいぜい咲希を気遣う程度のことしかできない。「先生、立ち上げは俺がやりますよ、よかったら少し休んでてください」「ありがとう、今日の前菜《オードブル》は白身魚とホタテの刺身にするわ、とてもいいヒラメが届いているから、下処理をお願いね」「カルパッチョですか?」「いいえ、刺身よ。ソースは醤油とワサビをベースに、私が作るわ」「刺身ですか、フレンチなのに」「フレンチだから刺身を出しちゃいけないなんてルールはないでしょ」「また……オーナーに怒られますよ」「そうね、怒られるでしょうね」村上は軽く首をすくめて、それ以上は何も言わなかった。彼は黙って、まな板いっぱいに横たわるヒラメを捌き始める。彼の手元は繊細ではないが誠実だ。ゆっくりとした包丁さばきで、皮を引いてゆく。次に出勤してきたのはギャルソンの時下。彼はソムリエの資格も持っており、ヒラメを見るとすぐに目を輝かせた。「白身魚ですか、となると白ですね」咲希は頷く。「甘口のものを中心に準
微かに冷蔵庫のモーター音が聞こえる。海斗は厨房の入り口にもたれたまま、不機嫌そうに腕を組んでいる。彼の靴先がコツコツと地面を叩く音が、その苛立ちを無言のうちに語っていた。咲希はレシピ帳から顔も上げずに答える。「考えてみたわ」床を叩いていた音がふいに止まる。咲希はさらに静かな声で続けた。「離婚には応じる」海斗の顔に喜色が浮かんだ。だが、その喜びが形になるよりも早く、咲希は顔を上げて強い眼差しを海斗に向けた。「だけど、この店は渡さない」海斗の表情が一気に落胆に変わる。「そんなことを、まだ言うのか」「慰謝料はこの店だけでいい、そうすれば離婚には応じる」「咲希、よく聞け……」「入らないで!」厨房の中へと足を踏み出す海斗を、咲希は声だけで押し留めた。「ここは関係者以外立ち入り禁止よ、話があるならそのままどうぞ」「俺は君の夫で、ここの出資者だが、それでも関係者じゃないというのか」咲希は鼻先で笑って答えない。今や彼女にとってこの男は、他人よりもよそよそしい存在だ。そして海斗にとっても、咲希はもはや尊重する必要のない相手であった。「君の手腕ではこの店の経営を維持することはできないだろう、たかが料理に、君はこだわりすぎなんだ」「それがあなたに何の関係があるというのかしら」「関係はあるだろう、出資した以上、利益は戻してもらわなきゃならない」「利益ね、あなたにとって大事なのは、それだけなのね」この店——ラ・ベラ・ヴィータの店舗自体の資産価値はさほどでもない。1日5組に限定して、原価を考えず高級食材をふんだんに使うスタイルだから、売り上げもほとんどない。それでも利益至上主義の海斗が、なぜこの店の所有権にこだわるのか。それは、この店の知名度が十分に価値あるものだからだ。「俺ならば、この店をもっと大きくすることができる」「大きくするつもりはないわ」「それだよ、そのこだわりがこの店を潰す、だから君にこの店は渡せない」咲希は黙ってレシピ帳を閉じ、立ち上がった。「仕込みがあるの、どうぞお帰りください」「咲希、あまり頑固だと、後悔することになるぞ」海斗は大袈裟に踵を返して立ち去る。遠ざかってゆくその足音を聴きながら、咲希は無意識のうちにコック服の襟元を指先でなぞった。そこには古い傷痕がある。首元を起点に、胸を通って脇腹まで
凶刃は私の体に傷を刻んだ。それは私の“美しい人生”をも切り裂いた。私に残されたのは、料理だけだった。照明は暖色系、黄色みを帯びた柔らかい光が店内を暖かく照らして明るい。テーブルには真っ白いクロスがかけられ、並ベラれた銀のカトラリーは丁寧に磨き上げられて曇り一つない。テーブルについているのは畠山海斗と、その愛人である向坂淳美、そして本日海斗が取引を持ちかけようとしている海道物産の社長、海道恒吉であった。本日のアミューズが並ベラれ、ワインが注がれる。海道はワイングラスを揺らしながら満足そうに言った。「ここが噂の“ラ・ベラ・ヴィータ”……いい店ですな」海斗がにっこりと笑う。それは営業用の胡散臭い笑顔ではあったのだけれど、海道は気にする風もなかった。「しかし、私は他の連中とは違いますよ、胃袋で商売に手心を加えるようなことはしない、どんな料理を出されても、契約なんかしませんよ」「ははは、その話は後で、まずは料理を楽しんでください」アミューズは小さなパンにアボカドとエビを乗せて軽く炙りをかけたもの。アボカドの優しい緑とエビの赤が美しい目にも美味しい一品だ。サクッと音を立ててそれを齧った海道は、軽く目を見開いた。「ほう、これは……」パンはトーストされてカリカリとした歯応えが楽しい。作り置きなどせず、食べる直前に組み上げたからこその歯応えだ。えびには少し強めの下味がつけられ、口中でアボカドと合わさった瞬間の味がきちんと計算されている。海道の口元が静かに綻ぶ。これを見た向坂淳美は、満足そうに微笑んだ。「いかがですか、いい店でしょ、うちの海斗はこの店の出資者だからいつでも予約が取れるんです、お気に召したなら、またご招待しますよ」まるで海斗の妻であるかのような態度だが、この場の誰もそれを咎めない。海斗自身が彼女のそうした振る舞いを普段から許容しているからであり、世間ではこの向坂淳美こそが彼の妻だと思われているのである。その頃、畠山海斗の本当の妻である畠山咲希は、この店の厨房にいた。「村上、オードブルを出してきてちょうだい、宮下はスープの仕上げをはじめて、時島、次のワインを用意して」二人の弟子とギャルソンに指示を出しながら、咲希は本日の“メインディッシュ”の鍋をかき混ぜている。弟子が恐る恐る首をすくめながら聞く。「あの、シェフ、本







